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明けましておめでとうございます。 [哲学]

気づくともう2015年ですね!

皆様、今年の抱負はなんですか?目標はたてられましたか?

私は、とりあえず運動不足解消の為にランニングをすることにしました。
あとは投資も始めます。

ランニングは今のところつづいています。
投資は勉強中です。銀行にも話を聞きにいこうと思います。

さてさて、目標の話がでましたので、また目標というところから人生を考えてみたいと思います。
私の仕事はあまり具体的に成長が見えにくい仕事なんですが、目標設定のやり方は、仕事を通して勉強になったことの一つです。

お仕事をされている方にとっては当たり前だと思いますが、例えば今日の仕事、明日の仕事などは、そもそもなんのためにやっているかというと、全社の目標があり、その中で所属する部署の目標があり、その中にご自身の目標があり、その達成のためにやっていると思います。
つまり、今日、明日という小さな単位だったとしても、目標達成に向けて意味のある仕事がどうか、ということを常に振り返りながら実践して行く必要があります。(そもそも目標が無いまま仕事をしているのはただのその場しのぎです。無いとは思いますが)

さて、これを人生にも当てはめてみましょう。
まず、仕事をすること、良い会社に就職することが人生の目標ですか?
はい、と答えたあなた、前にも書きましたが、では今のあなたの仕事、無給でもできますか?
恐らくいいえの声が増えると思います。
ここでいいえに答が変わった方は、仕事そのものが目標ではないですね。
仕事を通して金銭を得ることが上位の目標になります。(生活のため、ということもありますが、仕事=人生の目標、達成したい事の場合は、無給でもできるはずですよね)
では、金銭の獲得が人生の目標でしょうか?
それもきっと違いますよね。お金だけもらえたとしても、そのお金が何にも交換できなければ、それこそただの紙切れです。
何かを手に入れるため、実行する為にお金が必要なんですよね。

こんな風につきつめて考えて行くと、「仕事」というものは恐らく手段になる場合がほとんどだと思います。
そして、仕事の時と同じように、「人生」という大きな枠で考えた時に、「仕事」という手段がその人生の目標を達成する上で有効かどうか、日々検証しなければいけませんね。
そのためには、まず目標をたてましょう。

私のランニングは「将来美女と結婚するためにモテるようになる」という一つの人生の目標という観点から、有効であると考えていますので、これも走る事そのものが目的ではなく、手段です。

新年1回目のブログは、皆様の目標設定と生き方の一助になれば幸いです。

幸せの相対性〜夜と霧より〜 [哲学]

さぁ、哲学タイムです。

タイトルにもしている『夜と霧』は心理学者ヴィクトール・フランクルが、第二次世界大戦中のナチスドイツによる強制収容所の様子を、一心理学者として克明に記した物です。

ずっと読みたくて、書店にふらっと立ち寄った時に、みすず書房から新版で出ているのをみてつい衝動買いしてしまいました。(社会人になってから、本を買う時はお金に糸目をつけないことに決めているので、後悔はしていません。ハードカバーでも)

一気に読んでしまいましたが、買って良かったです。

なかでも印象に残っているのが、収容所から解放された後の一枚を巡る写真の話です。

ある人が、被収容者達が狭いベッドにぎゅうぎゅう詰めで寝ている様を写した写真を見て、フランクルにそのおぞましさ、悲惨さを訴えかけました。
しかし、フランクルには、その人が写真に対して抱いた感情が全く理解できませんでした。
その写真をみて、フランクルが思い浮かべたのは、「幸福」でさえあったのです。

というのも、その写真は「静養中」の被収容者達の様子を写したものであることを、フランクルは知っていたからです。
彼らは、病気と認められ、窮屈なベッドで一日中ごろごろし、うたた寝しても良い身だったのです。
吹雪の中、過酷な労働を強いられる他の被収容者達と比べて、その写真の人々がどれだけ恵まれていて、その「静養」がただ「生き延びる」という目的のために、どれだけ大きな意味を持つかを、フランクルは経験から分かっていたのです。

この一節から、「幸せ」とは相対的なものであり、立場が変われば同じ状況でも180度変わってしまうことを痛感しました。この観点を得る事ができただけでも、この本を買った価値が十分あるように思っています。

極端な例かもしれませんが、現代社会にも通ずる部分は大いにあると思います。


皆さんにとっての幸せとは、どのようなものでしょうか?
自分のことも、他人のことも、どちらも慮る気持ちを持つことに繋がる一節をご紹介させていただきました。





資本主義とは? [哲学]

またまた少し哲学的な話です。(哲学って、以外に実用的だったりするんですよ。)

日本は資本主義社会というのは皆様ご存知の通りですが、そもそも資本主義って、どういうことでしょうか?
マルクスは、Wikipediaという文明の利器の中で、資本主義をこう定義しています。

「生産手段が少数の資本家に集中し、一方で自分の労働力を売るしか生活手段がない多数の労働者が存在する生産様式」

マルクスの哲学では、この「労働」=「生産」が社会を構成する基礎の部分であり、その生産には「道具」が伴い、その「道具」の発達が社会の進展であり、その「道具」は「所有」という関係を生むため、「所有」がまた社会関係の基礎となる、とされています。

マルクスの考え方を自分なりに簡単に解釈してみましたが、文章にするとわけわかりませんね。

でも、とどのつまりは、資本家が「所有」し、労働階級は「所有」していない、ということになるのではないでしょうか。英語ではhavesとhave-nots、なんて言ったりしますね。

資本家への一点集中は、資本主義会ではある意味で「正義」です。だって、資本が社会の基礎原理ですから。
資本を持っている人が、投資をしてさらに資本を増やし・・・というループのなかにいるわけですから、持つものと持たざるものの間の溝は大きくなるばかりです。

その溝を埋める為には、ただ社会の歯車として、一企業に所属しているだけではだめですよね。
なにか「他の人とは違う」アクションを起こす必要があります。

それを考えるのが、20代の頃の宿題じゃないかなぁと思っています。
目標は30歳までに、資本が資本を生む=不労所得が永続的に発生する仕組みを作ること。
失敗は投資だと思って、色んな事に挑戦してみようと思います!

応援して下さいね!

仕事はなんのため? [哲学]

前々回は激オモ、前回は激カルのトピックだったので、今回は間を取って、中ぐらいで。

突然ですが、皆さんはなんのために働いていますか?
生活のため、家族のため、という方もいれば、仕事が好きでやっているから、という方もいるでしょう。

では、「生活のために必要だから」と考えている方、「仕事が好きだから」と考えている方、それぞれにもう少し深く問いかけてみたいと思います。

前者の方、もし仕事をやめても生活を維持できるのなら、今の仕事をやめますか?
後者の方、もし給料が全くもらえないとなった場合には、今の仕事をやめますか?

恐らく、両方とも「YES」と答えられる方が多いかのではないかと思います。

これはあくまでも仮定の話ですが、どちらにせよ、仕事というものが生活の大半を占めている方がほとんどではないかと思います。

では、仕事は「目的」でしょうか、「手段」でしょうか?
我々は一体なんのために働いているのでしょうか?

少し前に人気を博した「ソラニン」という漫画の中で、主人公、種田は彼女の芽衣子さんにこう言います。「芽衣子さんはお茶汲みなんかをするために生まれてきたわけではない」と。

我々は、80年あまりの人生のうち、半分以上を仕事に費やし、そっと生涯を閉じるために生まれてきたのでしょうか?

偉そうにもったいぶった書き方をしていて恐縮ですが、私にも答は分かりません。
しかし、特に日常に忙殺されてしまっている方には、是非一度、じっくり考えてみて欲しいのです。

「働くこと」が人生の大半を占めているのであれば、「働くこと」の意義が腑に落ちれば、「人生」の意義を考えることにも大きな影響を与えるのではないかと思うのです。

当たり前になってしまっていることについて、一度熟考してみる機会を持っていただければと思い、つらつらと書かせていただきました。

一緒に、働くこと、生きることについて、考えていきましょう。
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変わるためには [哲学]

最近、自分の嫌なところばかりが目につきます。

自分は本当に意思の弱い人間で、やると決めた事を全然やり抜くことができません。

こんな自分を変えたいと思いつつ、いつもいつも失敗の繰り返し。

一体どうすれば良いのでしょうか?

社会にでてまだ2年足らず、まだまだ未熟なのは当たり前かもしれないが、こんな自分を認めてくれる人がいるとは到底思えません。

変わりたい、と思いますが、そもそも「変わる」というのが消極的な考え方なのでしょうか?

自分が「変わる」ではなく、自分を「変える」という風に、自分自身を主体として認識するのではなく、客体として認識すれば良いのでしょうか?

理屈ばかりで、肝心の実践が足りてないのが問題なのでしょうか?

どなたか、アドバイスいただければ幸いです。

今年も残りわずか、皆さんは今年の始めに立てていた目標は達成できましたか?

私は全くです。

少し気が早いような気がしますが、一年の計は元旦にあり、と言います。

来年こそは、自分を「変える」年にしたいです。

いや、元旦を待たず、今から変えていきます。

応援して下さいね。

不平等でいて、平等な世界 [哲学]

大人になるにつれ、世の中は理不尽だなぁと思うことが増えました。

元々のルーツは、高校時代に死ぬほど練習した部活動の最後の大会で、あっさり1回戦負けしたことにありますが。

世の中には、「努力すれば報われる」とか、「頑張れば頑張った分だけ成果が出る」とかいう言葉がまことしやかに語られていますが、全くの嘘ではないにしても、必ずしもそうではないと思います。

恐らく皆さんもそういう経験をされたことが、1度や2度はあるのではないでしょうか?

この世に生を受けてから、努力をして何かを手にした人も多くいるのは事実だと思います。
ただ、この世に生を受けた時点で、努力では埋める事の出来ない差がある場合があるのもまた事実です。

デカルトではないですが、「理不尽であることだけが疑い用の無い事実」ではないでしょうか?

特に、東京の町の中には、まさにそれが体現されているような所もあります。
例えば、渋谷。

若者が集い、夜も眠らない町ですが、その賑わいのすぐ側、宮下公園にはたくさんのホームレスが暮らしています。
まさに、社会の不合理、光と影を見るようです。

もちろん、そのような境遇にある彼ら自身に問題があった場合もあるでしょう。
しかし、それだけが原因ではないように思えてなりません。

別にホームレスを救う慈善事業などをする気は毛頭ないですが、このような理不尽な世界になってしまっているのは何故なのか、そしてそんな世界をどう生きていけばよいのか、一生哲学していくつもりです。

こんな話ができる友人が欲しいですね。
タグ:哲学 生き方
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